園便り 2024年6月

園便り

今月の園便り 2024年6月

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。

                     また隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカ10章27節)

                      

 巻頭のみ言葉は、6月(7月を含む)の聖書の箇所で、イエス様の教え、その人柄に触れようとして集まってきた群衆に向かって語った「山上の説教」の一節です。

 イエス様はわたしたちを他者を愛すること=大切にすることに招いておられます。愛することは感情だけではなく意志の力を必要とすると言われますが、「愛される」「愛する」という体験があって人は他者、いのちあるものを大切にしようとするのでしょう。

 教育者として上智大学の学長など日本のカトリック学校で働かれ、ローマで教皇補佐代理であられたヨゼフ・ピタウ大司教は次のようにおっしゃっています。「エデュケーションはエデゥチェーレ(educere)という動詞から来る言葉で、「中から引っ張り出す」という意味です。引っ張り出すのであって、吹き込むということではない。子どもの心の中にあるすべての可能性を引っ張り出して、その子どもができるだけ自分の力で成長できるようになるということがエデュケーションです。エデゥチェーレ、心にあるものを、心にある可能性を最高の点まで引っ張り出して、そして、できるならば、自分が自分自身を教育するということになるのです。このエデュケーションということがモンテッソーリ教育の中心にあります。(中略)一人ひとりは神さまから贈られた宝物で、そして私は、彼あるいは彼女の成長を助けなければならないのです。しかし、先生は助けはしますが、その教育の責任者は、子どもです。その基礎は父親と母親ですが、一番大きな責任者は子どもです。モンテッソーリ教育においては、子どもが自分の力で自分自身を教育するというところまで持っていかなければなりません。自分の教育の責任者は、第一に子どもです。次は親です。次は先生です。そして先輩(おばあさん、おじいさん、おばさん、おじさん、従兄弟たち)にも責任があります。」(講演「マリア・モンテッソーリの教育改革」より)

 愛された体験をした人は、自分自身を「愛する人」になるよう育てていく責任があるということでしょう。幼児であっても自分に責任を持つことは可能です。わがままを通そうとする時、人が嫌な思いをする態度をとる時、「仕方ない。」とあきらめるのではなく、ただ叱るのでもなく、「本当にそれで良いのだろうか」と考える時間をとり、自分の行動を選ぶ責任を持たせることは大事です。知識は獲得しているけれど、自分の心を納めることが苦手な子どもたちの状況は、現代顕著に見られるように思います。私たちは、子どもが自分で育つ力を持っていることを信じていますが、そのように行動していけるよう援助すること、私たち大人が、子どもたちに、聞かせたい言葉、模倣してほしい行動をとっているのか振り返ることがまず大切です。

 


                 

 


6月・7月の宗教のねらい~すべてのものを造られた神さまありがとう~

・イエス様のやさしい心に触れる

・神さまは、一人ひとりを愛し、大切にしてくださることを知る

 イエス様の優しさとは、善きサマリア人のたとえ話(ルカ10章25~37節)にあるように、同じ宗教、血族、地域の繋がりなどを超えて、すべての人を神さまの大切な子どもとして大切にすること、弱く助け手を持たない人に寄り添う生き方に表れています。

 大切にされたら嬉しい、だから友達、動物や自然など自分の周りの世界を大切にする、そのような思いが子どもたちの中に広がるよう、共に過ごし、祈っていきます。カトリック教会では6月を「イエスの聖心(みこころ)の月」として、一人ひとりをご自分よりも大切にされ、命を捧げられたイエス様の心を思い、その愛に応えることができるようにと祈ります。幼稚園での生活の中心にイエス様がおられ、その優しさが子どもたちや私たちの心に広がっていくよう意識していきたいと思います。

 

    6月・7月の聖歌「アーメン・ハレルヤ!」

    ♪せかいのみんなきょうだいさ はなすことばがちがっても 

       主にむかうこころは みんなおなじ 子どもだから

         アーメン・ハレルヤ  アーメン・ハレルヤ

         アーメン・ハレルヤ アーメン・ハレルヤ